米津玄師2019TOUR 脊椎がオパールになる頃 感想

2019年3月10日、幕張メッセにて開催された米津玄師2019TOUR 【脊椎がオパールになる頃】に参加してきました。

はじめての米津現地。はじめてのアイドル現場以外でのオールスタンディング。不安と期待が半々の気持ちのまま挑んだ米津玄師のライブでしたが、最高に最高に楽しかったです。今回はそんなライブで思ったことを書いていきます。

曲によってテンションが違うので、読みにくかったらごめんなさい。

それではいきましょう!

脊椎がオパールになる頃

  1. Flamingo
  2. LOSER
  3. 砂の惑星
  4. 飛燕
  5. かいじゅうのマーチ
  6. アイネクライネ
  7. 春雷
  8. Moonlight
  9. 打上花火
  10. amen
  11. Paper Flower
  12. Undercover
  13. 爱丽丝(アリス)
  14. ゴーゴー幽霊船
  15. ピースサイン
  16. Nighthawks
  17. orion
  18. Lemon
  19. ごめんね
  20. クランベリーとパンケーキ
  21. 灰色と青

現実世界を侵食する世界観

FlamingoとLemonのシングルを主軸にBOOTLEG楽曲を配置したセットリストで、MCは短めのものが2回+アンコール曲前のみ。米津玄師のライブの現地は初めてだった為どんなパフォーマンスをするのか見当もつきませんでしたが、異次元という言葉がぴったりでした。

今までの自分の中の『米津玄師』は、音楽MVだけ。そして、それらだけでも充分だと思っていました。しかし、スクリーンの映像を使った演出も、ステージの光の演出も、ダンサーも、マーチング隊も、あの場にあった全てが米津の世界の具現化でした。

楽器が鳴る。米津が喉を震わす。ダンサーが躍り、マーチング隊は隊列を組んで太鼓を叩く。すると、絵本を開くかのように、狭いステージは物語の世界へと変化していくのです。

砂漠を歩いているかと思えば田舎の夏の夜にいたり、異形蠢く昏い世界に迷い込んだかと思えばスチームパンクの喧噪の中にいたりする。まるで沢山の世界線を股に掛ける物語の舞台に放り込まれたようでした。

実際には米津が歌っているだけなのですが、上で書いた通り物語に溺れ窒息しかけた私には、米津の心の内に広がる心象風景がを介して現実世界を侵食しているように見えたのです。そして、その広がった景色は今まで音からイメージしていたもの以上の景色として、目の前に広がっていました。

その光景を見て、文字通り手の震えが止まりませんでした。

LOSER

この曲は米津が25歳の時に作詞作曲したもので、テレビの取材で「LOSERは自分のことだ」と言っています。人付き合いが苦手で、家に引きこもってゲームばかりしている自分のことを負け犬と揶揄しているのです。

しかし、今はどうでしょうか。

LemonのCDはゴールドディスク大賞を受賞。MVはYouTubeで3億再生。BOOTLEGレコード大賞最優秀アルバム賞を受賞しています。

進め

ロスタイムのそのまた奥へ行け

(LOSER-米津玄師 より引用)

今目の前で歌うのは、負け犬がロスタイムのそのまた奥へ転がりながらも走ってきた姿なのです。

負け犬の遠吠えだった声は、今では日本中が聞いています。3年前に彼がLOSERに込めた『負けて立ち止まろうとする自分には絶対に負けないという強い意思』を、今の彼が貫き通したことを証明しているのです。25歳の決意表明を、28歳の彼が有言実行したんだと叫んでいるのです。

だからでしょうか。ただ格好良いだけじゃなく、清々しい表情で憑き物が落ちたように軽やかにLOSERを歌う彼の姿が、私にはとても輝いて見えました。

f:id:tsktktk:20190315204726j:plain

f:id:tsktktk:20190315232749j:image

LOSERのラストで見せた、ステージにしゃがむTEENAGE RIOTのジャケットと同じ姿。それは、不甲斐ない自分やみっともない自分をさらけ出して、そんな自分を変えようと歌にしてきた米津の『弱い自分』への反抗心のようで。それでいて、その不甲斐なささえも武器にしてしまえる『強い自分』の証明のようでした。

 

負け犬の歌、世界一カッコ良かったです。

かいじゅうのマーチ

※歌詞考察が入ります。苦手な方はご注意。

この曲は大好きで、米津楽曲の中でも一番聞いていました。

歌詞も全部覚えています。米津の書く全ての歌詞の中で一番好きなフレーズもこの曲の中にあります。そんな自分がこの曲を生で聴いたらどう感じるのか楽しみでした。

結果から言うと、私は『この曲自体』と『一番好きなフレーズ』のことをより好きになれました。

 

発端は、米津の後ろのスクリーン映像。

 

イントロと共にスクリーンに映し出されるのは、動物(不思議な形のものもいたように思う=かいじゅう?)の行列の影が歩いていく映像。"あなた"という愛しいものに会うため、道草せず1本の道を歩いてきたと言うかいじゅうの歌を、米津はCDの歌声よりも優しさが込められた声で歌い上げました。

この曲の私のイメージは『青空と砂漠のコントラストの中、かいじゅうが一匹ぽつんといる』というものだったのですが、スクリーンでは沢山のかいじゅうが隊列を組んで歩いていました。その映像にとても驚き、あたたかな優しさを感じ、心の底から嬉しさに震えました。

私は、"あなた"と出会うまでかいじゅうは孤独だと思っていたのです(鳥は出てくるが、かいじゅうは鳥を見送るため一緒に旅はしない)。しかし、そうではなかった。旅の途中のかいじゅうは孤独ではなかった。

すると、ある想像が浮かびます。

もしかしたら"あなた"に伝えるために覚えた言葉で、お互いを励ましているかもしれない。

いつまでも絶えることなく友達でいよう

信じあう喜びからもう一度始めよう

(かいじゅうのマーチ-米津玄師 より引用)

言葉は繋がりを作るのかもしれない。

その繋がりは『友達』と呼べるかもしれない。

泥だらけのありのままじゃ

生きられないと知っていたから

だから歌うよ 愛と歌うよ

あなたと一緒が良い

(かいじゅうのマーチ-米津玄師 より引用)

かいじゅうたちは"かいじゅう"の名の通り、見た目は醜いのかもしれない。

だからこそ愛という共通言語で歌を歌うのかもしれない。

人を疑えない馬鹿じゃない

信じられる心があるだけ

(かいじゅうのマーチ-米津玄師 より引用)

この歌詞が全米津歌詞で一番好きなのだが、何度も曲を聞いてきたはずなのに、まるで初めてこの歌詞を飲み込めたような感覚になりました。

かいじゅう(=醜いもの)は「泥だらけのありのままじゃ生きられないこと」を知っている。おそらく人(=綺麗なもの)もそれは知っている。もしかしたら、人の中にはかいじゅうを信じない者もいるのかもしれない。

しかし、かいじゅうは「愛を歌うことで信じ合うこと」ができる。ひいては「信じ合う喜び」を知っている。だからかいじゅうは、たとえ泥だらけのもの(=醜いもの)でも、人(=自分たちを受け入れられないもの)でも、信じることが出来る。

それは人を疑えない馬鹿なのではなく、信じられる心があるから。かいじゅうが愛している"あなた"が、きっとそういう人だから。そんな"あなた"と一緒が良いから。

まぁ正直な話、私は自分に敵意を向けてくる奴まで信じようとは思えないし、そう思う奴がいたら気味が悪いとまで思ってしまうかもしれない。

けれど、もしかいじゅうがそういう奴だったとしたら、私は少し、信じてみたいとも思う。きっとそれほどまでに、かいじゅうにとって"あなた"が大きな存在だろうと思うから。そして私も、かいじゅうにとっての"あなた"みたいに、大切な誰かから愛される人になりたいと思うから。

打上花火

ステージが暗転。静かに虫の音が聞こえた。ゆっくりとイントロが流れ、米津はステージから前方、短い花道のような三角形ステージへ歩きだした。

米津の足元に小さな炎がともり、その炎は足元から米津の進む道を示すかのように、さらに前方へと移っていく。その炎を道標に、三角形の頂点まで歩いた米津。サビが始まる。

 

炎の高さは米津の膝程度までしかなく、炎のあかりは米津の顔を下からぼんやりと照らす程度。その光景が、『田舎の夜の草原で小火を焚く少年』のように見えた。

この夜が続いてほしかった

(打上花火-米津玄師 より引用)

あの時の米津を通して見た少年は、きっとこの歌詞を何度も繰り返す少年の『その後』なんだと思った。

あの子との最後の夏、打上花火と終わらない夏に心を囚われた少年が、二度と会えないあの子へと届くように送り火の炎で思い出を火葬したように見えたのだ。

その光景はノスタルジックであり、思い出の喪失でもあり、少年が新しく踏み出すためには必要な儀式でもあった。歌う米津と足元を照らす炎という『たった半径数メートルほどの空間』と『ぼんやりと下から照らされた米津の顔』だけでひとつの物語が展開されており、その物語は少年の心の機微というミクロな世界をこれでもかと言うほど丁寧に切り取っていた。

悲しくて、切なくて、懐かしくて、愛しくて、沢山の感情が心の中でぐちゃぐちゃにかき回されて、ズキズキと痛むほど胸が苦しくなった。

amen

打上花火が終わると同時に、晩鐘のような鐘が鳴る。ひび割れたような音が聞こえてくる。amenだと思った時には、米津の後方、昏い闇から異形(を模したダンサー)が這い出てきた。その異形は曲に合わせてのたうち回り、寄り集まり、ひとつの大きな生物になった(組体操のように、8人くらいで一つの個になり動いていた)。まるで異世界の御伽噺に出てくるような『それら』を、米津が指揮者となって彼らを操っているようにも見えた。

amenは不穏な部分とキャッチ―な部分から構成されているが、不穏な部分は足が震え、鳥肌が立ち、無意識のうちに呼吸が浅くなっていた。このままだとまずいかもと思ったところでサビに変わり不穏さがなくなる。ホッと一呼吸いれた時、呼吸がおざなりになっていたことに気がついた。

打上花火で『田舎の夏の夜』の『少年の心の機微』という『ミクロな世界』を見せた直後に、amenで『この世界ではない異世界』で『語り継がれているかもしれない闇の異形』という『マクロな世界』を見せてくるのだ。前曲で意識的に視点を狭めた結果の産物かもしれないが、一寸先の闇というおそらく誰しもが持っている恐怖心を刺激してくるのはズルい。いい塩梅の恐怖や狂気は人を引き付けるというのを身をもって実感した4分半だった。

ごめんね

大好き。感無量。以上。

 

 

 

 

 

 

 

いや、まぁ語るんですけど。

 

この曲は米津がハマった「UNDERTALE」というゲームの、あるキャラクターへ向けた歌だそうです(さっき調べたのですが)。情弱で申し訳ないのですが、その事実も知らず、UNDERTALEもプレイしたことが無い私には、この曲はずっと『死別した恋人の歌』だと思っていました。そのため、アンコールの開幕で歌われたことも、明るい演出も、自分の認識とズレが大きく、違和感が大きかったです。

しかし、UNDERTALEについて調べて、ようやく分かりました。

 

UNDERTALEは二つの種族である『ニンゲン』と『モンスター』が争い、モンスターが地下に追いやられた世界のゲーム。その地下に落ちてしまった主人公が、地上を目指して謎解きやバトルをこなしていくRPGとなっています。そのキャッチコピーは『誰も死ななくていいやさしいRPG』。敵をだれ一人殺さなくてもクリアできるらしいです。

けれど、例えプレイヤーがモンスターを一人も殺さなかったとしても、その世界はきっと沢山の争いや諍いがあって、沢山の命が失われたはずで、『モンスター』の大多数は『ニンゲン』を恨んでいるのではないでしょうか。

だから米津は、そんな関係を思ってこの歌詞を入れたのではないでしょうか。

心の底から触れ合うまで

君と繋がっていたいだけ

(ごめんね-米津玄師 より引用)

先にも書いた通り、この曲はアンコールの一曲目でした。

その演出は、ライブを盛り上げたマーチング隊や闇の異形を演じたダンサー皆が笑顔で踊り、ハイタッチし、皆で歌うもの。あの瞬間のステージ上には役割の区分けがなく、皆が一つでした。沢山のカテゴライズの壁が壊れたその光景が、私にはとても美しく見えました。

しかし、それだけではありません。

 

一つになろうとする空気は、私たちにも波及していったのです。

 

この『ごめんね』という曲は、UNDERTALEのイメージソングの他に「皆とライブで楽しめる曲」というもう一つの顔があります。今までは自分が良いと思うものを孤独に作り続けてきた米津でしたが、この曲の向こう側には、明確に『観客』が反映されているのです。

サビが終わった後、米津は両手を大きく広げます。すると、会場を観客の声が包み込むのです。一度聴いたら頭から離れない美しいメロディが、老若男女の歌声に乗って。

 

米津はステージ上をひとつにし、そして、会場の皆と一緒に歌うことでステージの上と下をひとつにしました。あの瞬間の感覚が、私にはとても不思議な体験でした。

空気にしては質量を持った何か。もしくは、羊水にしては質量を持たない何か。そんな形容しがたい何かに、会場が包まれたように感じたのです。

何もかもスローに見えて、だけど不安な気持ちなんて1ミリも無くて。

ただただ心が温かくて、涙が止まらなくて。

f:id:tsktktk:20190315232815j:image

あの正体はきっと、米津の『優しさ』だったのだと思います。

やっぱり総括すると

大好き。感無量。以上。

となるわけです。

 

ちなみに、気になったので始めました。

 

ツアータイトルとMCについて

脊椎がオパールになる頃。・・・とても不思議なタイトルですよね。

最初はあまり意味が分からず、何かオシャレだなぁくらいの気持ちでライブに臨みました。

 

そのライブのMCで、米津はこんな事を言いました。(言い回しは少し違うかもしれません)

世の中はどんどん変わっていく。今までは歌詞にしても許されてきた事が、明日には許されなくなるかもしれない。今まで見て見ぬふりをしてもらってきたことが、明日にはしてもらえなくなるのかもしれない。

自分の中にあるものを、その時代にあった形で、俺がその時代と一緒に変わり続けながら表現していくことが、きっと美しいことなんじゃないかなって思う。

「お前変わっちまったな」っていわれることも多いんだけれども、そう言って離れていく人も多いんだけれども、俺はその人たちを前にして「はい、私は変わりました。あなたは他でどうぞ」とは言えないし、言いたくない。

今はダメだったかもしれないけど、時代が変わって、俺の音楽も変わって、そうしてまたどこかで交差する部分が、リンクする部分が出てくるかもしれない。それは2年後3年後4年後5年後・・・10年後かもしれない。だけど、その時にまた会えたらいいなって気持ちで、これからも音楽を作っていきたい。それが、俺の作りたいポップソングなんだ。

自分を大きな船だとすると、その中の誰も落としたくないんだ。傲慢な考えかもしれないけど、それでも、やりたいと思うんだ。思うんだから仕方がない。

この会場に何人の人がいるか分からないんだけども、そんな俺の歌を「いいな」って思って集まってくれている一人ひとりが、今までやってきたことは間違いじゃなかった証明なんだ。

こんなに嬉しいことはないんだ。

脊椎とは人間の体を支えるもので、それは信念と言い換えてもいいかもしれません。それは時代が変わって表現が変わっても、変わらない大きな軸です。

オーストラリア産のオパールは、主として堆積岩の中から見つかります。産地によっては、貝殻やクビナガリュウなどの脊椎せきつい動物の骨、植物の幹などの形をしたオパールが産出することもあります。

(徳島県立美術館-企画展 ミネラルズ より引用)

http://www.museum.tokushima-ec.ed.jp/bb/chigaku/minerals/38.html

その信念は、長い年月を経て虹色に輝くオパールになるのかもしれません。

 

しかし、脊椎がオパールになるためには何百万年という途方もない時間を要します。

そして、米津が目指すのは普遍的なポップソング。

 

つまり、このツアータイトルは『自分が持つ信念が光り輝く遠い未来まで、沢山の人が幾星霜も歌い続けられるような音楽を作っていく。』という意味が込められているのかな、と思いました。

 

 

 

 

終わりに。

米津のライブは初現地だったわけですけれども、米津玄師2019TOUR 脊椎がオパールになる頃について、想いを馳せてみました。

いやー・・・とんでもないライブでした。ライブが終わってから今まで、ずっっっと米津の曲を聞いています。目を閉じるとごめんねの景色が浮かんできます。胸が苦しくなります。元々好きでしたが、まさかここまで好きになってしまうとは思いませんでした。

 

本当に楽しかったです。

米津さん、最高の2時間をありがとう。

素敵な思い出をありがとう。

 

 

またいつか、ライブ行きたいなぁ・・・

 

 

おわり。