ヴァイオレット・エヴァーガーデン 第10話 感想

人は一人の人間であり、その名前には唯一無二の願いや祈りがある。これは前回の9話の一番のメッセージだったと思います。

しかし、人は生きていくうちに、少しずつ、自分を表す代名詞が変わっていきます。

ホッジンズは『軍人』から『社長』へ。ヴァイオレットは『戦争の道具』から『自動手記人形』へ。立場や役割はその人を示す名前の代わりとして機能し、そして、時の流れと共に、少しずつ変化していくのだと思います。

 

さて。

今回のお話は、ひとつの物語が二つの目線で語られます。

ひとつは、アン・マグノリアという一人の少女が『子供と大人の境界線』で苦しみながら、『子供』から『大人』に、『娘』から『母』になるまでの物語。

もうひとつは、火傷を乗り越えたヴァイオレット・エヴァーガーデンが、"死が引き裂くはずだった母娘の絆"を、『手紙』を書くことで未来へ守り抜く物語。

大きな山場を超え、ひとつの区切りを着けたヴァイオレットが歩む道は、それでもいつも通り。誰かの愛を、大切な誰かへ届けるものでした。

母と娘

アンは幼い子供でありながらも、母親に残された時間が短いことを知っている。そして、そんな母親に付き纏う親戚たちの醜い欲望もなんとなく感じている。アンはアンなりに理解しているのです。

母を心から心配してくれる人なんていないことを。家にやってくる"お客さん"は、自分とお母さんの時間をただただ奪っていくものだと。

ヴァイオレットもまた、アンとお母さんの『七日間』という時間を奪う"良くない人形"としてやって来て、しかし最後は"優しいお姉さん"として帰っていきます。

ヴァイオレット自身は何一つ変わっていないけれど、一緒に過ごした七日間の中で、アンの目に映るヴァイオレットが変化していくのです。

愛する人はずっと見守っている』という今回の物語は、アンの主観で始まり、終始アンの人生を追いかけます。

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母と娘が同じ画面に映る時はヴァイオレットが映らないように演出されるのを見て、「これはヴァイオレット・エヴァーガーデンでなく、アン・マグノリアの物語だ」という強烈なメッセージのように感じました。

忍び寄る気配

ヴァイオレットとクラーラは、外のサンルームで手紙の執筆をします。透明なガラスによって隔てられたその場所は、アンにとって踏み込めない領域であり、何を書いているのか、どんな言葉を交わしているのか分からない大人の世界。

秋から冬になろうとしている季節は、サンルームに落ち葉や枯葉を落とす。それは七話のオスカーの時と同じく、死の概念がクラーラに迫っていることを示しています。

そして、透明なガラスの内側で、アンはその光景を見ているのです。

アンはクラーラの『いい子で居てね?』という言いつけを守り、子供らしくあろうとします。けれど、クラーラが発作で崩れ落ちるところを見てしまっている。普段の姿から、もしかしたらもう長くはないのかもしれないと察してしまっている。

忍び寄る暗いものを自分なりに見て、『見えていない振りをしよう』と選択しているのだと思うのです。

『いい子』で居れば、『お母さんが言った「早く良くなるわ」も現実になるかもしれない』という打算的な『子供らしくなさ』と、そんな安易な願いに縋ってしまう『子供らしさ』が、アン・マグノリアという少女なのだと思います。

鏡写し

今回のお話は第九話と同じ骨格をしており、ヴァイオレットが"どちら側"に立っているかという違いによって、お話のテイストを変えているように思います。

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上のカットから分かるように、第九話のヴァイオレットと第十話のアンは、鏡写しのような存在なのです。

彼女達の共通項は『たった一人の大事な人を失う悲しみ』です。その痛みを誰よりも実感しているからこそ、ヴァイオレットはアンの痛みを受け止め、抱きしめることが出来る。

届けるに足る重さが言葉に宿る。

私の腕が、あなたの腕のように

柔らかい肌にはならないのと同じくらい

どうしようもない事なのです。

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近い将来、病魔に奪われるであろうクラーラの命はどうしようもない(=守れない)。ヴァイオレットの銀の腕が、アンの柔らかな肌にはならないのと同じくらい、どうすることも出来ない。

けれど、ヴァイオレットは奪われた腕を銀に変え、アンから大事なものを根こそぎ奪おうとする"どうしようも無い世界の現実"から、母の愛を手紙として隔離し、守ることが出来る。

ヴァイオレットの中の"優しさ"や"苦しさ"が心の中で暴れていたとしても、『自分は自動手記人形なのだから』と、心に仮面を被せ、涙を流さず代筆をやり遂げることが出来る。

それらは、第七話のヴァイオレットではできない事でした。オスカーがオリビエを喪失した痛みに共感し、耐えきれなくなり、ヴァイオレットは涙を流してしまいます。それでも不器用なりに、不完全なりに、オスカーと二人三脚で彼のトラウマを"美しい思い出"に昇華できた日々があったから、今彼女は青い日傘を携えて、母娘の愛を守ることが出来ているのです。

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してきたことは消せない。

でも、君が自動手記人形としてやってきたことも、消えないんだよ。

第六話で"寂しさ"を知り、第七話で"大切な人を喪失するのはとても寂しく、こんなにも辛いことなんだ"と実感し、第九話で"どうしようもないことばかりだけど、それでも生きていたい"と思えた彼女だから、『大切な人を喪失しても、笑顔で人生を歩んでほしい』という五十年分の母の想いを不足なく手紙に込めることが出来たのだと思います。

愛する人はずっと見守っている。

今回の物語は、クラーラを中心とした半径5メートルの中でのお話です。

 

病状の母がいて、寄り添う娘、家政婦、代筆担当の自動手記人形がいる。

母は深い愛情を五十通の手紙として残し、娘はその手紙を胸に、自分の人生を歩んでいく。

 

オスカーの時と同じく、今回の手紙は一種の『タイムマシン』のようだなと思います。

半径5メートルの空間で、過去から未来までを繋ぐ深く大きな愛が、手紙に込められているように思うのです。

 

しかし、その愛の円は半径5メートルに留まりません。

CH郵便社に戻って、母娘を想い涙を流すヴァイオレットがいる。そして、ヴァイオレットの涙を受け止める仲間がいる。

五十年に渡って手紙を保管してくれる郵便社があり、毎年手紙を届けてくれる配達人がいる。

直接アンを見守れる訳では無いけれど、それでも心のどこかで、関わっている皆がアンを見守っているのではないでしょうか。

そして、誰しもがそうなのだと思うのです。

アンを見守るヴァイオレットを、ずっと見守っているホッジンズがいます。胸に輝く緑のブローチがあります。

誰もが誰かの何かを貰い、育ち、新しい誰かへと還元していく。その中で沢山の光や痛みを抱え、生きていく。

ヴァイオレットは依頼人との一瞬の交わりの中で心を込めた手紙を書き、人と人を繋いでいきます。

手紙を書く時間も、読む時間も、長い人生の中では一瞬かもしれません。しかし、繋いだ絆は、想いは、これからも書き手と受け手の中で輝き続ける。

そしていつか、その輝きは誰かを照らす光になるのかもしれません。

 

 

 

 

ヴァイオレットの『手紙』のように。

 

 

 

 

今回の十話も、とても素晴らしかったです。