映画『ラブライブ!サンシャイン!! The School Idol Movie Over the Rainbow』感想

酒井和男監督、サンライズ制作の劇場アニメーション"ラブライブ!サンシャイン!!The School Idol Movie Over the Rainbow"を見てきました。二回目です。

感想は一言でいうと、「世界一面白いwwwなんだこの映画はwww」です。酒井監督の才能と人柄が1秒1カットに凝縮されていて、1シーン1シーンに圧倒されながらも心がじんわりと暖かくなる。そんな映画でした。

正直な話、アニメ1期13話の結びが完璧で、アニメ2期の終幕も完璧で。これ以上面白いものを作れるのか?!と思うほど、ラブライブ!サンシャイン!!のアニメは素晴らしい作品でした。

けれど、今ではこの劇場版があることで、ラブライブ!サンシャイン!!はもうワンランク上の作品になったと思います。毎度毎度、高すぎるハードルをくぐるでもなく正攻法で飛び越えてくる制作陣には感謝しかありません。

さてさて、これから映画を見て色々と思ったことをノリで書いていきます。口調も統一していないので読みにくかったらごめんなさい(笑)

それでは参りましょう!

『冒頭7分の話』と『鳥メロで泣いた話』

劇場版の始まりは2期13話の体育館。水面の上を弾むかのように進む千歌から「僕らの走ってきた道は…」が始まった。

アニメ2期のラストダンス前に「夢じゃないよ」と曜は言った。夢か現実か分からない2期のラストは少し不思議な時間、空間で、だからこそ心から愛おしい時間だったが、その続きが始まることがはっきりと伝わってきて心の底から体が震えた。

Aqoursがこれまで歌ってきた曲と共にあった沢山の衣装と共に巡り巡るWONDERFUL STORIESの演出は現実的ではないけれど、だからこそ納得できる。圧倒される。感動する。なぜなら画面を通してAqoursを見てきた私たちこそが、Aqoursの『軌跡/奇跡』の生き証人なのだから。

声が届かないと分かっていても応援した。現実世界には存在しない浦の星女学院の廃校に涙した。架空のキャラクターへのその声は、架空の学校へのその涙は、実の無いものなのだろうか。意味のないものなのだろうか。

それは違う。声は伝えたい『何か』を『誰か』へ発するもので、そこには心が宿るのだ。涙が地面に落ちるのは、涙の雫が発生する時に心や感情がそこに込められているからだ。

何故こんな話をしているのかというと、youtubeにて公開されている冒頭の7分について語りたいことがあるのだ。

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アニメではほとんど描かれていない場所からキャラに思い入れのある場所まで、沢山の場所をステージにしてAqoursは歌い踊る。しかし、登場するのは場所だけではなく、そこで生活する沼津の人々も丁寧に描かれている。

内浦や沼津の街を歩けば、ひょっとしたらAqoursと出会えるのではないかと思うほどアニメでは現実の沼津を大切にしているが、それと同じくらい沼津や内浦の方々もAqoursラブライブ!サンシャイン!!を愛してくれている。

作品と聖地が互いに歩み寄って盛り上げてきた作品だからこそ、冒頭の7分は思いが溢れ、こみ上げてくるものがある。

だからだろうか。

初めて聖地巡礼した時に友人と酒を飲んだ鳥メロが映っただけで、こっちはボロボロなのだ。鳥メロで泣くのはさすがに想像していなかった。想像してみてほしい。Aqoursじゃなく鳥メロを見て泣くオタクを。

なんなんだ。馬鹿か。馬鹿だな。けれど、鳥メロまでが詳細に描かれていた事が、そしてそのことに感動した事が、バカバカしいほど嬉しかったのだ。

この映画はアニメ「ラブライブ!サンシャイン!!」の続きの物語だ。劇場版まで沢山の事があった。だからこそ、この7分はこれまで支えてくれた聖地への『感謝』と、作品を楽しんだファンへのちょっとした『プレゼント』のようなものだと思った。

 

また沼津に行きたい。

またあの鳥メロに行きたい。

またアホな話で盛り上がって、仲間とAqoursについて思いを馳せたい。

 

そう思わせてくれる、素敵な7分だった。

 

 

 

・・・とまぁ、鳥メロの話で1500字も書いています(?!)が、ここから映画の内容について語っていきます。まずは前半・伊太利亜ッッッッ!!!!

イタリア編:2つの巣立ち

前半のイタリア編は二つの軸からなります。

ひとつは籠の中に閉じ込めようとする母と、飛び立ちたい鞠莉の対立。

もうひとつは今まで2,3年生の腕の中にいた1年生の自立。

鞠莉は母親からの巣立ちを、1年生ズは2,3年生からの巣立ちを描いているという点で、少しだけ違いがある。この違いがめちゃめちゃ愛おしい!!

鞠莉はもう飛び立てるだけの翼があり、羽搏きたい青空がある。あとは母親を納得させる(=ライブで感動させる)だけ。

逆に1年生ズは翼こそあれど、羽搏く練習(=2、3年生の力を借りないで何かをする)が必要なのです。

(Next SPARKLING!!の衣装で3年生の『両翼』は彼女達一人ひとりが自分の力で羽搏いていけることを示していて、1、2年生の『比翼』は互いに手を繋ぎ、互いの比翼で協力して羽搏いていくことを示しているのかな。これまで翼はあるけれど羽搏けなかった1年生が、イタリアでの羽搏きの練習で風を掴むことを覚えたのだとしたら。そして、そのチカラもあって6人のAqoursがより高く飛べるようになったのだとしたら。なんて妄想をしていました。)

また、違いは最後にも。

鞠莉(雛)は母親(親鳥)に「パパとママが私を育てたように、Aqoursも私を育てたの。全部無くならない。全部が私。」と言っていましたが、ダイヤ(親鳥)は1年生だけでステージを決め大成功をおさめたルビィ(雛)へ「ルビィはもう何でもできるのですわ!」と言いました。

鞠莉は前から分かっていて、ルビィは今実感として分かったんですよね。

同じ巣立ちを描きつつも、微妙に鞠莉の方が進んでいるのがとても良いですし、1年生の目的の延長線上に鞠莉の目的があるのが、気持ちいい痛快なテンポ感を生み出しているのでしょうか。

そうそう、書いていて思い出しましたが映画を見ていて一番感じたのがテンポの良さなんですよね。気がついたら映画が終わっているんですよ。

いつもは「今大体〇分くらいかな?」とふと我に返ってしまうのですが、サンシャインの映画は気がつけば終わってるんです。

けれど、時計を見るとちゃんと2時間が経っている。「うわああああ綺麗に2時間盗まれたっ!!!」とか思っていました。飽きさせない構成なんでしょうかね。

二時間ぶち抜きでどっしり1つの話をするのではなく、同じテーマの短編を1つの映画にした印象と言えばいいのか。

しかしその心地良いテンポ感の中に光るものが沢山あり、それら全部はやっぱりちゃんと繋がっている。脚本構成がヤバすぎる。書いた人だれだよ…十輝か……。

私たちだけのラブライブ!編:紙飛行機と雪の結晶

聖良とのSaintSnowが大切だからこそ、もう一度SaintSnowと同じものを…と思ってしまう理亞がめちゃめちゃ人間くさくて、たまらなく愛おしい。

大切な人の大切な夢を壊した事実。聖良の道を閉ざしてしまったのに、自分の道は残されてしまっている現実。それらは遠慮なく理亞にのしかかる。『全部残ってるから』の一言で、自問自答で、そう簡単に割り切れる人間はいない。ましてや15歳の女の子ひとりでなんて。

僕は映画を二回見ましたが、同じところで泣いてしまいました。泣き叫びながら走っていく理亞を見るとどうしても涙が止まらない。

大切なものが心に残っているからこそ、その大切なものを壊してしまったからこそ、理亞はあったかもしれないラブライブに囚われてしまう。その気持ちはとても分かる。

彼女一人だけ居場所が、目指す場所が違うのだから、新しい仲間が離れていくのは仕方がないことだというのも分かる。

だからこそ苦しい。

心は粉々に砕け、モチーフのスノードームも壊れた。見ていて心が痛かった。他人の僕でこれなら、理亞は、聖良はどれだけ痛かったんだろうか。そう思うと聖良が「理亞をAqoursに入れてあげたい」と思ってしまうのも分かる気がする。

だけど、ルビィは優しさと誠意を持って、きちんと拒否できる。優しさと誠意を持って「ラブライブは遊びじゃない!一緒に進もう!」と手を伸ばせる。理亞は1人だけど独りじゃなかった。

そうして2つのグループはあったかもしれない決勝を再演する。とてもミニマムなラブライブ。けれど、それでいい。自分たちの中に残っているものを、もう一度確かめるための儀式なのだから。

そうして羽根は理亞の色に染まっていく。自分の中にあるものに気づいて色が変わる。それはつまり羽根の色を変えるチカラは理亞の中にずっとあったということ。

聖良が作詞したであろう「Believe again」の歌詞も相まって、とても嬉しかった。

 

理亞の積み重ねは間違っていない。無くなってもいない。理亞は理亞らしく頑張ればいいんだよね。

 

千歌は紙飛行機を何度落ちても飛ばし続ける。だから彼女の紙飛行機はボロボロのヨレヨレ。けれど、だからこそ、その紙飛行機は羽搏く鳥になった。

理亞だって同じだと思う。

姉と誓った雪の結晶はもう手が届かないかもしれない。ひび割れ、溶けてしまったかもしれない。けれど、理亞には辛いことがあって涙を流しても追いかけることが出来る情熱がある。

その涙が一緒に流してくれる誰かの涙と交わって再び雪になった時、新たな雪の結晶になるんだと思う。

 

Aqoursも、SaintSnowも、繰り返し進んでいける強さがあるのだから。

 

だから、きっと、大丈夫!!!

理亞ちゃん、頑張れええええええええええええええええ!!!!!!!!!!

皆で作る、私たちのライブ編:きっと明日も輝ける!

の前に、少しだけ浦の星女学院の話をさせてくれ…。

余談:浦の星女学院の心

浦の星の校門、ちょっと開いてましたよね。あそこでめちゃめちゃに泣いてしまうのです…。僕は真面目に浦の星女学院擬人化勢なのですが、本当に浦の星女学院が愛おしくてたまらなくなります。

2期11話の閉校祭はまるで火葬のようでした。浦の星との思い出を、青春を、皆で共有し、光に満ちた夢を見ながら、闇の中で美しく燃える炎を看取るお祭り。リアタイしていた時は、あの瞬間に浦の星女学院は死んだと思った。けれど違ったんです。

最終話、千歌が紙飛行機の後を追って校門まで来た時、門は少しだけ開いていた。あの門を開けたのは誰だろうか。浦女の生徒の皆か、Aqoursの皆か。当時ずっと考えていて思ったのですが、僕は浦の星女学院だと思うのです。

泣きながら、繋がりを無理やり閉じるかのようにお別れした千歌と笑顔でもう一度お別れしたい浦の星女学院が、いたずらっ子のように校門を開け、千歌を招き入れたんだと思っています。

だからこそ、映画で少しだけ門が開いているのを見た時、愛おしくてたまらなかったのです。

バス停が無くなる。いつか校舎もなくなるだろう。賑やかというか、うるさいというか、そんな時間ももう積み重なることは無くなるんだろう。そんな話をしながら、Aqours浦の星女学院へ向かう。

そうしてたどり着いた先には、申し訳程度に開いた校門があった。

まるで浦の星女学院が「私はここにいるよ」、「もう一度校舎に入って、虹を見ていいよ」、「だから、お願いだから、私の事を忘れないで」と言っているかのように見えたんです。

暖かくて、切なくて、涙が止まらなかったけど、入ったらダメなんだよなって思った。

そうしたら千歌はきちんと門を閉めて、「無くならない、全部残ってる」って言い聞かせるように言うんですよ。泣きじゃくる妹に語り掛けるように。

もうね、ダメ。今も泣きそう。浦の星女学院、ずっと大好きだ。

 

さてさて。

 

イタリアや彼女たちだけのラブライブ!を経て、最後に向かうは6人のライブ。ここまで色々と濃い時間を過ごしてきた彼女たちは、一番最後のこの瞬間に、一番最初のハードルに戻ることになります。

 

人数は6人。

でも大丈夫。

浦女の皆がいるから。

静真の皆がいるから。

そして、心の中に3人がいることに気づいているから。

 

最初は指先だけの円陣だった。

でも、もう大丈夫。

3人が居ない空間は、逆に3人が居たことの証明になるから。

 

かけ声は自分たちだけに聞こえる小さな声だった。

でも、もう大丈夫。

千歌の楽しさを抑えられないような1から始まるカウントは、7も、8も、9も、6人に聞こえているから。

 

μ'sのように全国のスクールアイドルを巻き込むような、秋葉原をジャックするような、大掛かりなものは作れない。沼津駅の一端を借りて、手作り感満載のライブしかできない。

 

でも、それでいいと心から思えるのです。

 

挫折して、立ち上がって、また歩き出す「当たり前の人間の物語」は、「神話」のように未来永劫語られるものではないのかもしれない。

けれど、例え神話になれなくても、その姿を見た人たちの網膜に、心に深く刻まれるのです。

どれだけ涙を流して眼が洗われても、絶対に消えることはないのです。

 

目を閉じればAqoursがいます。

Aqoursと共に在る皆がいます。

応援してくれる沼津の人。

手伝ってくれる学校の人。

 

…僕には一緒にAqoursを追いかける友人たちも。

 

きっと、千歌もそうだと思うのです。

 

千歌の中にずっと残っているもの、残っていくものが、あの瞬間のあの場所に溢れている。私には何もないと言っていた彼女には、こんなにも沢山のものがある 。

 

その積み重ねた全てがいつか仄かに香る思い出の香りとなって、次の輝きへの火種になるのではないでしょうか。

 

だから、

きっと明日も輝ける!

と信じられるのかな。

 

Aqoursの泥臭い軌跡が、僕にはとっても綺麗に見えました。

 

素敵な思い出をくれて、ありがとう。